実業界の父・渋沢栄一と
東京女学館

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はじめに 東京女学館の基礎を築いた渋沢栄一 渋沢栄一の目指した女子教育と、その実践 実業家・渋沢栄一 おわりに

はじめに


東京女学館の基礎を築いた渋沢栄一

 

女子教育奨励会設立趣意書(写) 1886(明治19)年
奨励会員の募集と資金集めのために配布された。

 

株敷勘定元帳 1887(明治20)年
女子教育奨励会員の出資台帳。一株は250円(小学校教員の初任給が月5円の時代)。
179名・総株数277.5株のうち高価順で岩崎久弥 20株、岩崎弥之助 15株、渋沢栄一 12株だった。

在学証書 1889(明治22)年1月7日
生徒が入学前に、規則や教示を守り勤勉な学校生活を送ることを約束した文書で、今の誓約書に相当。
保証人に伊藤博文、大山巖、長崎省吾などの名前が見られる。

震災復興のための新築資金寄附願い 1923(大正12)年
新校舎の建築工事に着手するにあたり、目標金額達成のため父兄に宛てた寄附願い。

 

東京女学館移転新築費収支決算報告 1930(昭和5)年
新校舎竣工後、女子教育奨励会評議員長 渋沢栄一、建築資金募集委員長 服部金太郎より資金の収支について報告された。

志ら菊 1930(昭和5)年
羽沢校舎新築後、東伏見宮大妃殿下がご来校の際に渋沢館長が出迎え、校内をご案内された記事が掲載されている。

 

伊藤博通宛て手紙 1931(昭和6)年
亡くなる直前の病床から伊藤博通(伊藤博文の養孫)に東京女学館の将来を思い、評議員会会長就任を懇願したもの。
栄一は最後まで東京女学館を案じながら昭和6年11月11日に永眠した。

第五代館長 渋沢栄一 ブロンズ像


渋沢栄一の目指した女子教育と、その実践

津田うめの英語教科書 1924(大正13)年
津田うめは日本で最初の女子留学生の1人。
2度のアメリカ留学後、女子教育に邁進して教科書を出版、その後1900(明治33)年に津田塾大学を創設した。

  

鑑札 1926(大正15)年 三田利子氏寄贈
表に「東京女学館」の焼き印、裏に生徒氏名が墨書された木札。生徒を迎えにくる家人や関係者であることを確認するため学校から交付され、羽沢に移るまで使用された。

礼法の時間に学んだ「飾り結び」手本 年代不詳
礼法は日本の文化伝統から作法を学ぶ授業で、「飾り結び」はその教材のうちの一つ。
小学校の「すずかけ」の授業にその伝統が受け継がれている。

教科書 1907(明治40)年から1914(大正3)年
当時女子には適さないと言われていた数学や理科が重要視された。
また、国際感覚を養うため英語教育にも力が入れられた。

 

化学ノート 1890(明治23)年頃 小谷野正雄氏寄贈
開校当初はほとんどの教科がイギリス人の女性教師による英語の授業だった。
これは第1回卒業生のもの。

明治大正のキャンパスライフ


実業家・渋沢栄一


おわりに