設立に関わった人々

HISTORY

東京女学館の設立に関わった人々 ― 女子教育奨励会

東京女学館は、女子教育奨励会が設立した学校です。1887(明治20)年1月12日、内閣総理大臣官邸において発起人が集まり、女子教育奨励会創立に向けて、まず女子教育奨励会創立委員22名が選出されました。これには、総理大臣伊藤博文をはじめ政界・財界・官界・学界の実力者が名をつらねており、当時の各界の期待が大きかったことが窺われます。創立委員会委員長には伊藤博文自身が就任しました。また、このときに学校の名前を「東京女学館」と決定しています。
この創立委員会の会合を重ねる中で、女子教育奨励会の組織が整えられていきました。女子教育奨励会会長には、皇族を推戴することとなり、北白川宮能久親王が就任。副会長・評議員・会員には皇族・華族をはじめ、歴史上に名前を残した人物が多く含まれています。資金の募集活動には、岩崎弥之助や渋沢栄一が尽力しました。
東京女学館の校地は、同年10月ごろ、いくつかの候補地の中から永田町二丁目二十番地(現在の衆議院議長公邸)に決定しました。かつて出雲国松江藩松平家の屋敷「雲州屋敷」があったところで、明治になって皇室の御料地へ編入され「永田町御料地」と呼ばれていました。この地が校地として皇室より貸与されることとなりました。
そして、翌1888(明治21)年9月11日、東京女学館は開校しました。

女子教育奨励会 創立委員会の組織

創立委員会委員長

伊藤博文

(内閣総理大臣・公爵)

長州藩出身。吉田松陰門下生として松下村塾に学び、幕末期は尊王攘夷・倒幕運動に参加していました。その一方で、長州五傑の1人としてイギリス留学を経験し、その国力の差に圧倒されると、開国論を支持するようになります。明治維新後は、長州出身者として明治政府の中で要職につき、日本の近代化を推進しました。1878(明治11)年に大久保利通が暗殺されると内務卿を引き継ぎ、明治政府の中心的な存在となりました。1885(明治17)年には初代内閣総理大臣に就任。憲法の制定に尽力し、1889(明治21)年には大日本帝国憲法発布を実現させました。4度の内閣総理大臣をはじめ、枢密院議長、貴族院議長、外務大臣、宮内大臣、韓国統監など、あらゆる重要な役職を歴任しています。

1887(明治20)年前後の経歴
内閣総理大臣、宮内大臣

創立委員会委員

渋沢栄一
(実業家・子爵)

武蔵国の豪農の家の出身。若い頃は尊王討幕を志しましたが挫折し、知り合いを通じて一橋慶喜(のちの徳川慶喜)の下に仕えることになりました。そして明治維新の混乱のころには、将軍の弟徳川昭武に随行してパリ万博を視察、その後も昭武に従って西欧諸国を歴訪しました。1868(慶応4、明治元)年に帰国したのちは大蔵省に出仕し、日本の財政改革に勤め、国立銀行条例の制定にも関わりました。しかし、政府内で大久保利通や大隈重信と対立したため1873(明治6)年に辞職。その後は実業界に身を置き、日本の産業育成に尽力するとともに、さまざまな社会貢献活動を行いました。第一国立銀行(現在のみずほ銀行)、東京海上火災保険、帝国ホテル、キリンビールをはじめ、生涯で500社以上の会社設立に関わりました。

明治20年頃の経歴
日本煉瓦製造会社創立・発起人、帝国ホテル創立・発起人総代

岩崎弥之助
(実業家・男爵)

土佐藩の出身、三菱財閥創業者の岩崎弥太郎の弟。1872(明治5)年からアメリカに留学中にしていましたが、翌年に父が急逝。兄・岩崎弥太郎の希望により留学を中断して帰国。三菱商会に入社して、海運事業に取り組みました。1885(明治18)年、兄弥太郎が没するとそのあとを継ぎ、2代目総帥として、三菱商会と共同運輸会社を合併して日本郵船を設立したほか、あらたに鉱山開発や造船、地所、金融、倉庫などの事業を興し、三菱の多角化に貢献しました。その後、1893(明治26)年に、三菱財閥の総帥を甥・久弥(兄弥太郎の長男)に譲りました。
また、実業家としてだけでなく、貴族院議員や日本銀行総裁を務めたこと、文化事業として静嘉堂文庫のコレクション収集でも知られます。

明治20年前後の経歴
三菱財閥総帥

エドワード・ビカステス
Edward Bickersteth
(英国聖公会主教)

イギリス・ロンドン近郊のバーニンガム生まれ。1873(明治6)年に日本でキリシタン禁制が解かれると、各国の宣教師たちが次々と来日しました。ビカステスは、英国聖公会の第2代日本主教として、1886(明治19)年に来日しました。日本の国内でのイギリス・アメリカ聖公会の活動を統一し、日本聖公会を設立、発展の基礎を作りました。また、キリスト教の教えにもとづく女子教育の必要性を感じ、1887(明治20)年には香蘭女学校を設立しています。

明治20年前後の経歴
英国聖公会第2代日本主教、香蘭女学校設立

アレキサンダー・ショー
Alexander Croft Shaw
(カナダ人宣教師)

カナダのトロント出身。イギリスで英国聖公会の司祭をしていましたが、1873(明治6)年に宣教師として来日。当初、慶應義塾で英語を教え、その後は芝に聖アンデレ教会を設立して日本人教職者の育成に力を注ぎました。たまたま通りかかった軽井沢の自然の美しさに感嘆し、家族や友人たちに広めたため、その後ショーの友人たちが別荘を構えるようになりました。外国人の避暑地として軽井沢が発展する基礎を作った人物です。

明治20年前後の経歴
日本聖公会宣教師

外山正一
(社会学者・教育学者・政治家・作詩家・文学博士)
富田鐵之助
(外務官僚・財務官僚・実業家)
長崎省吾
(宮内顧問官)
齋藤桃太郎
(宮内顧問官)
神田乃武
(英学者・教育学者・男爵)
末松謙澄
(逓信大臣・法学博士・子爵)
原六郎
(銀行家・実業家)
高嶺秀夫
(教育学者・動物学者・教育経営者)
櫻井錠二
(化学者・理学博士・男爵)
大鳥圭介
(教育経営者・外交官・男爵)
伊澤修二
(文部官僚・音楽教育者・作曲家)
渡邊洪基
(外務官僚・政治家・教育経営者)
菊池大麓
(数学者・政治家・理学博士・男爵)
矢田部良吉
(植物学者・作詩家・理学博士)
穂積陳重
(法学者・法学博士・男爵)
カーギル・ノット
Cargill Gilston Knott(英国物理学者)
ジェイムス・デクソン
James Main Dixon(英国英文学者)

女子教育奨励会の組織

女子教育奨励会会長

北白川宮能久親王

伏見宮邦家親王の第9王子として生まれ、上野寛永寺貫主・日光輪王寺門跡をつとめました。1868(慶應4、明治元)年に始まった戊辰戦争では幕府方についたため、親王を解かれ、謹慎処分となりました。その後、許されて伏見宮に復帰、のちに北白川宮を相続しました。軍事研究のためにドイツに留学し、帰国後は多くの陸軍軍歴を重ね、1884(明治17)年には陸軍少将、1892(明治25)年には陸軍中将に昇進しています。日清戦争中には近衛師団長として台湾に出征しましたが、1895(明治28)年、現地でマラリアに倒れ、亡くなりました。教育事業では、獨逸学協会の初代総裁として、獨逸学協会学校(現在の獨協中学・高等学校)の設立に尽力しました。

副会長20名

有栖川宮熾仁親王妃董子 小松宮彰仁親王妃頼子 伏見宮貞愛親王妃利子
北白川宮能久親王妃富子 三條実美夫人治子 黒田清隆夫人たき
伊藤博文夫人梅子 西郷從道夫人清子 大山巌夫人捨松
土方久元夫人龜子 後藤象二郎夫人雪子 毛利元徳夫人安子
岩倉具定夫人久子 柳原前光夫人初子 鍋島直大夫人榮子
蜂須賀茂韶夫人隋子 花房義質夫人千鶴子 渡邊洪基夫人
岩崎弥之助夫人早苗 渋沢栄一夫人かね